親知らずを抜きました

 始まりは、かかりつけ医の「抜いたほうがいいね~」という軽い一言だった。歯医者の定期健診で撮ったレントゲン写真には、はっきりくっきり四本のおやしらずが写っていた。元々、顎が小さく歯が大きいというダブルパンチで過去に歯列矯正をしていたため、抜かなければ健康上の不都合だけでなく、歯並び、という問題も出て来てしまう。そこにかけてもらった費用と、抜歯の恐怖に板挟みになった。容量がないところにものを詰め込めばグチャグチャになるのは当たり前のことで、せっかく整えたのに放っておけばまたグチャグチャになるリスクを四本抱えているというのである。……抜くしかない。けど怖い。

 小学生のころ、まだグラついていない奥歯を局所麻酔で抜いた記憶があるが、歯一本に、おじさん先生の渾身の力とペンチがのしかかってくるのは、なかなかのトラウマであった。トラウマであるが、抜かないという選択肢はないので、その恐怖と、スケジュール調整という微妙に面倒くさい試練を乗り越え、かかりつけ医に紹介状をかいてもらった総合病院へ向かった。

 

 後に調べたら、真っすぐ生えている歯はそこらへんの歯医者で抜けるが、埋没しているまだ生えていない歯は大学病院や総合病院、歯科口腔外科があるところへ行くらしい。「親知らずを抜くのは何科?」と検索すると、「歯科口腔外科の診療で最も多く行われている手術です。他の歯の抜歯と異なり、歯肉を切ったり、骨を削ったりあるいは歯や根を割って抜歯を行います。」と出てくる。恐ろしい。

 抜歯をする前にどのような形で行うのかやレントゲンなど、事前に診察を行う。四本ともまだ生えておらず埋没しているため切開して抜くことになる。この際一気に四本抜いてもらうのが良い、と全身麻酔で抜歯をしてもらうことになった。担当になった先生は、予想に反して若く、声が大きくスピーディにハキハキ話す、結構ずっと真顔の先生だった。私が思考する速度よりも、先生が思考して発話するまでのスピードの方が速いくらいだ。優秀な人ってこんな感じなんだな、と一人感心していた。先生の説明では・・・(目がパキッとしていて色が白いな、お母さまのお顔が想像しやすいお顔だな、家族みんなが医者の家系で小さいころから医者になるように言われて育ったのかな、幼稚園から大学までエスカレーターなのかな、)とどうしようもない邪推をしている間に抜歯の日程まで決まってしまった。なるほど、優秀な人って、先延ばしにしないんだ、全部その場でピシッと決めるのだ、とまた一人感心した。

 

 あっという間に抜歯当日になった。嘔吐による窒息を防ぐため、朝ごはんは摂らずに向かう。健康診断のために断食する両親を見てきたので、なんだかそれっぽいな、と思った。脱水を防ぐために点滴を入れてもらうのだが、看護師さんに血管をなかなか見つけてもらえず、五回目でやっと刺さった。「あれ、おかしいな」「どこだ……」みたいなどんどん不安になる言葉が聞こえてくるので、刺さったときは本当に安堵した。点滴が済むと手術室に向かう。

 自分の閉じられた想像力によって広がっていた恐怖は、目の前に具体的に存在する人々によって消えていった。麻酔科の先生が説明してくれ、看護師さんが低い温度の手術室に冷えないよう毛布を掛けてくれる。いちばん恐いのは、起こる物事そのものではなく、自らの頭の中でのみ発展していく想像力なのだと実感した。

 

 実際に体験するまでは、全身麻酔は意識が強制的にシャットアウトされタイムスリップしたような感覚になると思っていたから、「私の人生にあるはずの二時間、あるいは一時間、いや三時間……!?はどこへ行くんだ……!」と絵文字の「号泣」のよう心情になっていた。しかし、いざ麻酔から目覚めてみると、ある。私の二時間はきちんと存在していて、痛み・疲労・体の重さになって実感できた。意識のない間の負担を全力で背負って覚醒するので、タイムスリップでは全くなかった。やってみて初めて知ったことだった。これで人に聞かれたら説明できる。「全身麻酔ってどんな感じ」「一日中海で遊びまわったあとに三時間だけ睡眠をとって無理やり目覚める感じだよ」それでも眠っている間にすべてを終わらせていただけるのだからありがたい。歯が生え出ておらず、歯茎に埋没したままの場合、歯を砕いてから取り出すことが多いそうだが、目覚めてから見せてもらった歯は砕かれることはなく、きれいに四本瓶のなかに収まっていた。先生も思ったよりすんなり抜けたみたいで、とてもありがたかった。

 

 抜歯が済んだ後は、ひたすらお粥をすすり、痛みが強くなる前に痛み止めを飲んで寝るだけである。幸い痛みは四日で完全になくなり、看護師さんに「跳び箱みたい」と揶揄された台形の顔の形もゆっくりと戻っていった。

 抜糸は二週間後に処置していただいた。「ちょっとチクチクするかも」なんて前回の診察で言われたけど、「ちょっと」では無いし、「チクチク」でもなかった。髪を五本くらい掴んで引っこ抜く感じだ。結構痛い。でも先生が優しかったからそんなに辛くなかった。ちょろい。

 

おまけ・よかったこと

 寝るって大事、を実感できたことがよかった。体力を消耗したからか、抜歯後三日間は本当に眠くて毎日二十一時には布団の中におり、朝の七時に目を覚ます、十四時くらいに再び昼寝する、というかつてないほど睡眠をとった。睡眠時間をたっぷりとった結果思ったことは、わたし、これからももっと寝るべき、ということだった。日中の快適さや、心の明るさが確かに違った。実際、たっぷり寝た後の日は五時間も机に向かえている。最近のわたくし、早く寝るよりもその時間をスマホいじくる時間に充てたい、なんて嫌な習慣がついてしまって……。早寝早起きの習慣、やってみせます。

 もう一つが、歯磨き中にスマホを触る習慣が無くなったこと。注意深く磨かないと傷口に歯ブラシをぶっ刺してしまう。いままでやめようやめようと思っても歯磨きだけに集中することができなかったが、片手間でやる余裕が無く、強制的に集中せざるを得ない状況になったことがよかった。今はすっかり歯磨きをガシガシできるようになったが、もう二度と!歯磨き中のスマホいじりはしない!

 

以上、抜歯について書きたいことを書きたいように書いてみました。幸い腫れも感染もなく抜糸まで終わり先生には感謝の気持ちでいっぱいです。これから抜くかもしれない誰かも無事に終わりますように。